2011年12月14日

 「女子プロという伝説」(柳沢健『1985年のクラッシュ・ギャルズ』文藝春秋)



 まず、タイトルが素晴らしい。『1985年のクラッシュ・ギャルズ』。あの頃女子中学生だった女性は手に取らずにはいられないだろう。
 何しろ、プロレス格闘技ボクシング関係一切興味がないはずの私ですら、クラッシュ・ギャルズはテレビで観ていたのだ。「チャンネル権」という言葉すら知らないであろう、ゆとり世代の人は信じないだろうが、プロレスがゴールデンタイムに放送され、テレビ番組編成の柱となっていた時代が、確かに存在したのだ。

 私はそんな中、プロレスに興味が全くなく、むしろ「なんであんな乱暴で野蛮なものを観なければならないのか」と嫌悪すらしていた。しかし私がクラッシュ・ギャルズだけは観た理由が、この本を読めばわかる。
 プロレスなど興味のない女子中学生まで巻き込んだのが、「クラッシュ・ギャルズ」という現象だったのだ。いつもは観ない人が観るからこそ、ブームというものは発生する。
 結論から言えば、あの頃のプロレスは、乱暴ではあったが、野蛮ではなかったのだ。
 「プロレスは文脈がわかるとおもしろい」ということを教えてくれた人がいたが、この本はまさしく、「女子プロの文脈」を、プロレスに興味のない人にまでしっかり伝えることができる本である。

 なぜ、プロレスに興味がなかった女子中学生たちも、クラッシュ・ギャルズに夢中になったのか。
 それは、彼女たちのプロレスは「物語(ストーリー)」であり、「伝説」であったからだ。

 この本を読んでもわからなかったことがひとつある。
 それは、「彼女らがプロレスをする理由」である。
 あらゆるメディアを試してみたいおっちょこちょいの私も、さすがに「プロレスラーになりたい!」とは一度も思ったことがない。
 肉体をメディアにするというのは、小手先ではできないことである。「ちょっとだけ、プロレスしてみる」というのは不可能だ。だから私にはできないし、できる人を尊敬する。
 本気になった人、特に女性は強い。

 プロレスに興味のない人にもぜひ読んで欲しい名著である。おそらく、私が今年読んだ本のナンバーワンになるだろう。


posted by バーバラ・アスカ at 13:01 | TrackBack(0) | 書評・書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月13日

「最強の母子家庭」(百田尚樹『風の中のマリア』講談社)



 母子家庭、というと、皆さんはどういうイメージを持たれるだろうか。
 今では昔ほど暗いイメージはないだろうが、「寂しげ」「貧乏」「鍵っ子」、良くても、「清貧」「貧しくても楽しく」というイメージではないだろうか。
 しかし、自分がなってみてわかったのは、母子家庭というのは、これはこれでなかなか楽しいものである。ものは考えようだ。カネさえあれば何とかなるし、働けばカネは何とかなる。仕事は選ばなければまだまだたくさんある。

 私の子どもの頃は、母子家庭というのは結構珍しい存在だった。
 離婚にあたって、母子家庭になるということを一瞬も考慮はしなかったが、離婚してしばらくした後に「ありゃ、ウチって、母子家庭なんだ」と思い、不安には思わなかったが「学校でお父さんがいない人っているのかな」とは思った。
 しかし、いざ小学校に上がってみるとそれは杞憂だった。母子家庭なんてうじゃうじゃいるし、特にそれで不都合があったこともない。私の見たところ、今の子どもたちは私の子ども時代よりずっと優しく、男女なかよしで思いやりがあるように見える。まあ、人数が少ないから仲良くせざるを得ないのかもしれないが、それはそれで良いことである。

 私の周りでも離婚は多い。離婚した人へのあいさつは決まって「おめでとう」である。一回結婚してしまえば後はいくつになっても「結婚はまだなの?」というウザい催促からはオサラバである。あとは当人が納得のいく生き方をして、寿命が来たら死ねばいいだけのことである。

 しかし、かかし、おかし。不思議と離婚すると、男性は腑抜けのようになり、女性はいきいきバリバリと働き出す。逆はない。また、私のいる出版業界は今は不況業種として知られた業界だが、仕事が減っても女性はアルバイトでも何でもしてバリバリと働き生き抜くが、鬱になったり自己破産したりするのは決まって男性。しかもバリバリ働く男性というのは決まって「オバちゃんぽい」のである。男らしいヤツほどグチっぽくて働かない。男性はホント、口ばっかりである。
 母とよく話す。「もう世の中男いらないね。女の方がしっかりしてるし、よく働くし」と。
 働かない夫がいるよりいないほうが、よっぽど快適である。

 そんな「よく働く母子家庭」の最強のおうち、昆虫の食物連鎖の頂点に君臨するオオスズメバチの一家を描いた小説が百田尚樹『風の中のマリア』(講談社)である。
 主人公マリアは、「偉大なる母」アストリッドから生まれたオオスズメバチの戦士である。
 オオスズメバチの巣はすべて同一の母から生まれた姉妹によって形成され、オスは交尾の時期、あるいは特殊な条件の下でしか生まれない。つまり、オオスズメバチの巣はそれ自体が巨大な「母子家庭」なのである。

 しかし、オオスズメバチの巣は、家庭というほどささやかなものではない。育房数、つまり部屋数で言うと、3000から8000というから巨大なものだ。だからこの本ではオオスズメバチの家庭のことを「帝国」と呼ぶ。
 母子家庭のおかーちゃん、アストリッドは帝国の女王にふさわしく、威厳があり、たくさんの娘たちを統べている。マリアはその中の一人であるが、日々、狩りをし、巣作りをし、戦う。
 オオスズメバチの成虫の寿命は約30日。その短い寿命の中で、マリアは成長し、恋をし、そして死んでいく。

 そして、彼女らは実によく働くのである。本書を読むと、オオスズメバチがどうしてこんなに働けるのかというメカニズムがわかるのであるが、「働ける」と「働く」の間には、1000光年以上の距離があることを賢明な皆さんはご存じだろう。オオスズメバチは「働ける」だけでなく「働く」のである。近年の研究ではアリにも遊んでばかりで働かないものがいる、ということだが、この小説では、ワーカーと呼ばれる女王バチ以外の働きバチはまあ働く働く。夜以外は休まず、1日に100kmもの距離を飛んで狩りに精を出す。

 で、オスは何をしているのかというと、交尾の時期だけ生まれ、交尾をしたら死ぬ。生物学的に遺伝子の多様性を確保するためにだけ存在しているようなものである。
 近親と結婚せず、他の人を選んで子どもをつくるのは種として生き残るための戦略であるが、それを人の世界では「恋」と呼ぶ。それならばオオスズメバチの交尾だって、恋と呼んでいいではないか。
 作品の中でミドリシジミという小さなチョウが言う。「ぼくたちが恋をするのは子孫を残すためです。」 

 なるほど。
 普段、さまざまな虚飾にまぎれて見えなくなっているが、そもそもオスという性は種の多様性をの残しつつ子孫を増やす、そのためだけに存在し、あとはおまけみたいなものなのだ。その「おまけ」で出世を目指したり趣味をしたりする。内田樹先生が以前「女性が男性の地位にあこがれる必要はない」というようなことを言っていて、その時はよくわからなかったけれど、今はよくわかる。生物学的には、女性はよい男性の子どもを産んでしっかり育てればいいのだ。男性は働かずともセックスさえしっかりやればよく、後はいなくてもよいのだ。少なくとも生物学的には。

 そうなると、現在の男がろくすっぽ働かず、「働いたら負けだと思う」とぬかして、怠けてばかりいるのもそれほど腹立たしいことではない。神様がお決めになったんですもの、それは仕方がないですわねえ。
 しかし、困ったことに、各種調査では「セックスに興味のない若者が増えている」ということである。これでは将来、うっかり単為生殖ができる人間が誕生したら、マジで男性はいらなくなってしまうぞ。そうなると、この『風の中のマリア』の世界が人間世界に現れるかもしれない。

 男性諸君、特に、一生懸命働いている男性諸君、ここまで「働かない働かない」と連呼して正直スマンかった。しかし、私の周囲では本当に、働かないのは男性で、働くのは女性なのである。願わくばこの文章を読んで「男性が怠け者とはなんたる無礼」と怒り狂う男性が多いことを望みます。


posted by バーバラ・アスカ at 00:00 | TrackBack(0) | 書評・書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月11日

「いつか誰もが読みたくなる本」( 田中芳樹『銀河英雄伝説』)



 『銀河英雄伝説』、略して『銀英伝』。
 いまさらですがハマってます。

 しっかし、このタイトル、当時よく編集者が許可したなあ、と思ってしまう。男子の大好物ばかり、こんなによく集めたもんだ。
 私現在、『大和五十六零戦マガジン』という本を準備しているんですけれど、男性って、ホントお子様ランチ的なもの大好きだよね。というか、お子様ランチ自体、サービス精神のかたまりだから、人が嫌いになるわけがない。

 さて、ここでいきなり銀英伝の話題に入るのは愚か者。わしはえらいゆえ、そのような愚はしないのぢゃ。銀英伝がいかにヒットしたとはいえ、日本人のほとんどが読んでいない本である。あらゆるベストセラーの認知度は、例えば昔のテレビ(今のテレビ、ではない)と比べるとマヂで大したことないのですよ。
 というわけで、『銀河英雄伝説』がどういうハナシかというと……面倒くさいので、amazonから引用する。

 「銀河系に一大王朝を築きあげた帝国と、民主主義を掲げる自由惑星同盟が繰り広げる飽くなき闘争のなか、若き帝国の将“常勝の天才”ラインハルト・フォン・ローエングラムと、同盟が誇る不世出の軍略家“不敗の魔術師”ヤン・ウェンリーは相まみえた。この二人の智将の邂逅が、のちに銀河系の命運を大きく揺るがすことになる。日本SF史に名を刻む壮大な宇宙叙事詩、星雲賞受賞作」 (amazon 『銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫) 』より)

 素晴らしい。簡潔にして不足のない説明。そう、『銀河英雄伝説』とはこういう物語なのである。
 この説明にもあるように、銀英伝にはタイプが違う二人の「主人公」が登場する。年若くして美貌、天才タイプのラインハルト・フォン・ローエングラム、年は若いが能力抜群、しかし美貌とは言えず勤勉とも言えないヤン・ウェンリー、この二人、タイプが「違う」どころか正反対なのである。

 で。
 私も含め、読者は基本的におっちょこちょいなので、このようにタイプの違う主人公を提示されると、「どっちが『おれ』か」によって、読み方が全然変わってくる。
 ま、結論を言ってしまえば最後にはどっちも死ぬんですが、まあ、死なない人はいないので、それはよしとして、美貌にして華麗な主人公に自分を仮託するか、堅実にして緻密な主人公に自分を仮託するか、それによって銀英伝の読み方だけでなく、読者の内面までわかってしまうのがこの作品の恐ろしいところである。
 オレ様? オレ様はもちろん、ラインハルト・フォン・ローエングラムびいきである。というか、ラインハルトになりたい! しかし、金髪ではないし美貌でもないし、軍略もなく器もなく、男性ですらない私は、脳内で「オレ様はラインハルトラインハルト」と自己暗示をかけつつ、壮大に全銀河系的に皿を洗ったり洗濯したりそうじしたりナポリタンを作ったりするわけである。

 SFが苦手、というよりどこがおもしろいのかさっぱりわからない私でも、これが楽しく読めたのは、スペース・オペラ(宇宙大冒険)に絶対つきものの「ウソ科学解説」特に「動力源の解説」が一切無いからだと思う。
 ウソ科学解説がお好きな人には物足りないかもしれないが、まー、私にとって、SF考証とかほぼどうでもいい。だって、電気釜だって中身はどうなっているか全然わからないし、パソコンだって中で何をしてるのかさっぱりわからないけれど、ちゃんとこうして文章だって打てているし、日々何の不自由もなく使えている。だから別に、ウソ科学解説がなくとも、リアリティは確保できるはず。
 もうひとつ言うと、私は「宇宙での大冒険」というやつに、まったく興味が持てない。なんで、あんな、空気のないところにわざわざでかけて大冒険なんぞをしなければならないのか。死んだりケガをしたらヤじゃないか。SFおうちにこもってSFこたつでSFみかんをむいていてはなぜいけないのか。さっぱり理解ができない。
 その点、銀英伝は迫力ある戦闘シーンはあるものの、「なぜ、こんな戦闘が起こることになったのか」といういわゆる政治的軍略的状況描写にページの多くを割いている。松本清張は殺人そのものよりも、「なぜその人が殺人をするにいたったか」ということを中心に描き、社会派の名をほしいままにしたが、銀英伝も同じ理由で、多数の読者を獲得することに成功した。

 人に言わせると、この作品は、水滸伝であり、三国志であるという。魅力ある多数のキャラクター、緻密な政治設定、迫力ある戦闘シーン、これらは昔から長く読み継がれてきた作品に共通する要素である。
 ぜひ、書店等で見かけたら、『銀河英雄伝説』を手に取ってみて欲しい。
 そしてもし、ちょっと読んでみて「おもしろくない」と思っても、また5年後、10年後、手に取ってみてほしい。
 筆者も、以前銀英伝を全巻そろえたものの、いまいちノレなくて、処分してしまったことがある。
 本も、映画も、読むべき時期というものがある。
 『銀河英雄伝説』は大人の鑑賞にも堪えうる、いつか誰もが読みたくなる、と断言できる作品である。

posted by バーバラ・アスカ at 00:00 | TrackBack(0) | 書評・書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。